発展途上国の木材が大量に伐採されたために山の保水能力が落ち、そのために洪水が発生すると言う情報は以前から
聞いていました。今回私が新たに耳にしたのは、ジャングルの大木が大量に伐採されたために多くのジャングルが消滅し、
それによって動物が激減し、狩猟民族は狩りが出来なくなって貧しい生活を送っていると言うことです。 
彼らに協力している一人のアメリカ人と、私はその現地に行くことにしました。
フィリピンは7千余りの島で構成され、主にマレイ系、他に中国系、スペイン系の混血の他、少数民族が住んでいる。
言葉はタガログ語だが英語が公用語であり、ほとんどで英語が通用するが田舎や少数民族の村ではタガログ語も通用しな
い場合がある。国民の83%がカトリック、その他のキリスト教が10%、イスラム教が5%で、大半がカトリック教徒である。
彼の名前はスティーブ。アメリカのテキサスが彼の現住所だが、今から約40年前、スティーブの父親がアグタの少数民族の存在を知り、道路のない時代にこの地を歩いて探しました。父はこのアグタの4村の内の一つパサルブイに母と一緒に居住しました。
彼の目的はこの少数民族の言葉を覚え、文字にしてそれを彼らに教え、更に聖書をこのアグタの言葉に翻訳すると言う、長期にわたるボランティア活動でした。
そしてその現地で生まれたのがスティーブであり、スティーブは村の子供達と一緒に遊び、一緒に狩りをして成長しました。
右下の写真は、今回現地でスティーブの親友サワがビニール袋に入れて大切に保管していたものを私に見せてくれた時の写真で、1970年に撮した「ハンティングをするサワとスティーブ」です。
手に弓を持ち、背中に矢を背負って裸足でジャングルを歩く幼い頃のスティーブと親友サワです。
スティーブは中学生になって彼らと別れ首都マニラへ移り、更に両親の故郷であるアメリカの学校へと移り住みました。
私がスティーブと知り合ったのは今から10数年前のことで、彼の奥さんが県立日田林工高等学校の英語の講師として日田へ来たときでした。後に私の娘が語学のためにテキサスの彼らの両親の自宅にホームステイし、大変お世話になったこともありました。
このような家族間の付き合いの中で私が耳にしたのが今回の少数民族のことです。スティーブが子供の頃には沢山あった、フィリピンの山やジャングルの大木が大量に伐採され、ジャングルが消滅し、動物が激減してしまったと言うことで、これはルソン島の東部でも同じ現象が起きていました。

フィリピンの少数民族は本来狩りで生活をしている狩猟民族であり、このアグタの人達も同様で、ジャングルが無くなり、動物がいなくなった村では食べ物が手に入らず、また獲物をお金に替えることも出来ません。故に病気になっても彼らは病院へ行くことも治療を受けることも出来ないのです。

このアグタの人達の村では、子供の死亡率が48%だったと言います。最近多少改善されたと言いますが、それでも半数近い子供が死亡しているのが現状です。
アメリカに帰ったスティーブの環境は一変、全てが豊かな生活の中にいてアグタの人々を思い出すとき、彼の胸には罪悪感が込み上げてくるそうです。
狩りをする幼少のスティーブ。
ジャングルが消滅した原因は木材の大量伐採であり、それらの木材の大半は日本の企業が伐採し、日本へ輸入されているのです。輸入された木材はパルプとして加工され、良質の紙や紙おむつとして毎日当たり前のように日本で消費されているのです。
マニラから中部バガバグ、そこから東部のカシグランへ
首都マニラからバスに乗って中部カシグランへは8時間の道のりでした。
日も暮れた夕刻、雨の中の小さなバス停で下車し、そこからその日の宿泊地までトライシクル(サイドカー付きの小型バイク)に乗って移動しました。
宿泊地とはカトリック系の教会がボランティアで運営しているSILと言う組織で、このSILバガバグはスティーブの父親らが数十年前に築いた施設です。
翌日の雨の上がった午後、このSILが所有する小型飛行機をチャーターし、東部カシグランという小さな町へ飛びました。
この時実は近くを台風が過ぎ去った後で、そのために空から見る景色は川が氾濫し、水は田や畑を押し流し、橋や道路を沈めている景色でした。6月から11月にかけて東部は雨期であり、現地では最近当たり前の景色だそうです。
事前に耳にしていた山は、はげ山か小さな木ばかりの山で、ジャングルらしき密林も確認できませんでした。
目的地のカシグランでは本来の滑走路が水に浸って着陸不可能のために、およそ30キロ離れた岡を切り開いただけの小さな滑走路に着陸しました。
カシグランまでチャーターした教会の小型飛行機。
ここは小さな部落で交通の手段はなく、車やバイクでカシグランまで運んでくれる人を探しました。しかし途中の道路は浸水し、いくつかの川は歩いて渡らなくてはならず危険で、折角日本から持ってきたアグタの人達へのお土産(Tシャツやタオル60名分)の段ボール箱は、滑走路を警備している人に預けることにしました。
右の写真は増水によって寸断された道路で、私達が腹まで水につかって渡った川の一つです。
最後に乗せてもらったバイクは2台で、夕暮れの山へタンデムで入り込み、途中川の中へバイクを担ぎ降ろし、川を渡って再度道路に担ぎ上げたり、砂浜の海の中を渡ったりで、全く予期しない悪路を走って夜にはカシグランの町へ着きました。
予定を大幅に遅れたため、その夜はカシグランの小さな民家に泊めてもらいました。
ここはスティーブの知人の家で、彼の幼なじみも訪ねてきてくれました。
翌朝、この町で数日分の飲料水を買い、ここからモーターボートを使って川を下り、入り江に面している目的の少数民族アグタの人達が住むパサルブイの村に着きました。
村は全部で4カ所有るそうで、私達の着いた村が一番小さく、5件の家しか有りませんでした。家は簡単な木材と、椰子の葉で覆われただけの建物で、壁は一部しかなくて向こう側が見えているようなお粗末な家でした。
もちろん家の中には簡単な鍋と食器以外に何もなく、家財道具なる物は一切見あたりません。床は日本の家のように高くし、隙間を空けて竹を張っているだけです。
フィリピンは熱帯気候に属し、6月から11月が雨期で平均気温は26−28度。主に半袖半ズボンで過ごせ、夜はこの竹の床に寝て一枚のシーツを着れば十分過ごせます。
ここは半島で、向こう岸がルソン島の本島になる。
私達はスティーブの父親が住んでいた家に入りましたが、床が鳥の糞などで汚れており、それを村の女性達が集まって掃除をしてくれました。
彼らはこのスティーブ一家に大変な恩を感じており、私達に毎回米を炊いてくれました。
もちろん私達の米や食材は、あらかじめ自分たちで持って行きました。
彼らの現在の収入は、椰子の木の葉から取った茎の部分をナイフで細長く削ぎ、籐のいすなどを作る紐を作っており、これを売って幾らかの米を買っているそうです。
他には数匹の豚を飼っており、えさには椰子の実を半分に割って与えており、放し飼いの豚はイノシシのように穴を掘って植物の根を食べていました。豚は自分たちで食べるのではなくて、大きく成長させて売るそうです。

動物が捕れなくなった現在の村の食事は主に米で、特に毎回の食事におかずはなくて、時々魚が捕れたときに食べる位だそうです。
ですから彼らは昔のように十分な栄養が摂取できず、病気になりやすく、病気になっても病院に行けないと言う生活が続いているようでした。特に女性は鉄分が不足していました。
右の写真の女性は、私達に毎回ご飯を炊いてくれたり、食器を洗ってくれました。

全てスティーブ一家に過去大変な恩を感じているらしく、自らすすんで世話をしてくれました。
彼女はこの村で唯一マニラへ働きに出た経験がありますが、両親は亡くなり、村に残したお祖母ちゃんが高齢のために村に戻ってきたそうです。彼女はまだ23歳です。
その日の夜、私とスティーブは川を渡って同じアグタの隣村へ行きました。
もちろん電気は来ていませんので真っ暗な夜道と、真っ暗な川を渡って行きましたが、隣村の方が若干家数も多く、村人も多分30−40名ほど居たように思います。
隣村には集会場があり、ここに30名ほどの村人が集まってくれました。
集会場には唯一のランプがあって、村人もクリスチャンで、ここで聖書を読み、最後に私達も交わって踊りました。
写真の中央やや右手の眼鏡をかけた女性は村長の奥さんで、目が見えず、一度頭蓋骨を明けての手術をしたそうですが、もう一度手術を行えば視力が回復するそうです。しかしそのお金が無くて、今は放置しているそうです。
唯一の集会所で彼らと歌い踊った後の記念写真
この村には、ココナツの木から落ちて手首を骨折、そのまま放置して手首がずれたままくっついていた女性、数日前に椰子の木から落ちてやはり腕を骨折した男性も居ました。
皆、病院へ行くお金が無く、そのままにしていました。一人の婦人の子供が3日前に死亡したそうで、泣いて話してくれました。
夜中に元の村へ帰る途中、私は彼らに何らかの手助けして上げたいと言う衝動に駆られました。フィリピンの物価は安く、日本で無駄なお金を使わずに、彼らに使って上げるなら何人の人達を助けて上げられるだろうかと思いました。
日本では毎日の食事でも沢山の残飯が出ます。特に宴会などでは沢山の食べ残しが捨てられ、これは当たり前のように見過ごされていますし、それを子供達も当たり前のように見て育っています。物のありがたさ、食べ物のありがたさ、住居のありがたさをつくづく感じさせられます。それは私が2年半前にシベリアをバイクで横断した際、田舎で見た貧しさと、食べ物のありがたさを再度思い出させました。
帰りの夜道の砂浜を月が照らし、椰子の木が月夜に静かにそびえ立つ光景の中、その対岸の暗闇に唯一人工の明かりが灯っていましたが、そこは森林の伐採工場で、日本人がいると村人が話してくれました。
彼らに挨拶の言葉はありません。「おはよう」「こんにちは」「いらっしゃい」「さようなら」と言う言葉は元々ありません。何故なのか考えてみました。彼らに「これは俺の物だ !!」と言う認識はなく、それは総てを共有しているからでしょう。
ですから他の人(村人)より物を沢山得ようと言う考えが無く、だから「俺だけの物」もなく、従ってそのような欲望がないから人を騙すことも無いそうです。
また子供達にイジメもないそうです。
村の人達はいつも一緒にこの村で助け合って生活をしています。ですから「さようなら」や「いらっしゃい」「久しぶり」等の挨拶は要らなかったのでしょう。
「ありがとう」も当然なくて、タガログ語の「サラマット(ありがとう)」は、ただ一人マニラへ出たことのある女性にだけ通じました。
彼らは非常に素朴です。
手品というものを彼らは知りません。日本では誰でも知っているような「親指の切断接着」の手品を私が数人の婦人と子供達の前でふざけてして見ました。
大切な米を振るって小石などのゴミを取り出す婦人。
これは私の周りに物珍しそうに子供達が集まってくるので、何か面白いことは無いかと素手で出来る簡単な手品をして見たのでした。
親指を関節で切り離し、そのあと息を「フー、フー」と言って吹きかけたら見事元通りに指がつながる簡単な手品でした。
ところが皆がびっくりしたのです。老婦人は「ギャー」と声を上げました。
私はもう一度繰り返しましたが、やはり全員驚いて目を丸くしていました。
私は調子に乗って自分の目を「寄り目」にして見せたら、こんな目も初めて見るらしく先ほどの老婦人はやはり「ギャー」と言って目を背けてしまい、子供達は「キャーキャー」言って喜んでくれました。他にも私が昔、祖父から習った面白い表情をすると、私は一躍人気者になってしまい、子供達がぞろぞろとついて回るようになりました。
ところがここまでは良かったのですが、後でこんなことが起こったのです。数日後、私がこの村から帰るとき、手首を折って手首が曲がったままくっ付いていた婦人を町の病院へ連れて行く時のことです。町まで行く舟の中で同行した3人の婦人が、手首の曲がった婦人に対し「彼の魔力でこの手首を治してもらいなさい」「彼はフー、フーと息を吹きかけると手首でも付け替えが出来るから」と、言い出したのです。
そして手を私の方へ差し出しなさいと、しきりに言うのです。これらの会話は彼らのジェスチャーで私にははっきりと理解できました。
私は狼狽しました。手を出されたらどうしよう、顔が青くなりそうでした。しかし、当人は一端切り離すのが怖いらしく、「イヤイヤ」を繰り返して舟底に小さくなってしまいました。
私は心の内で「ホッ」と胸を撫で下ろしました。もし手首を出されたらどうしよう、「手品」を知らない彼女らは、「騙された」と思うかもしれない。
いつも明るく好奇心のある子供達
私が冗談で行った「手品」は、見た物をそのまま信じ込む素朴で純粋な村人らに「だます」と言う、俗社会の汚らわしさだけを残すことになったかもしれないし、信頼性も一挙に無くしただろうと、ゾッとして彼らの前では軽はずみな行動も注意しなければならないと反省しました。
これは私がこの現地にくる前には想像も出来なかったことです。私は至る所で日本との文化の違いを感じ、「彼らに私は何をして上げたら良いのか」と言う私の問いかけに対し、スティーブは「それは大変難しい」「とにかく現地に行って、自分の目で見ることです」と言っていたけど、何となくその意味が解ってきたような気がしてきました。日本に居ながらにして他国の文化は計り知れないし、日本の物差しで他国は計れないと、ロシアを経験したときにも感じていたことを思い出しました。
これは私が帰った日に起こったことです。
それは現地に残ったスティーブからの知らせと、添付して送ってきた写真で知りました。
同じアグタの隣村の男性がスティーブの所へ泣きついてきて、「女房を助けてくれ」としきりに嘆願したそうです。スティーブは直ぐに彼の家へ行きましたが、奥さんはもう意識がもうろうとしていたそうです。
スティーブは直ぐに彼女を舟に乗せ、町の病院へ連れて行きましたが、しかし手遅れでした。彼女は夫と3人の子供に看取られて亡くなったそうです。
病名は「結核」でした。
多分、家族はこの「結核」と言う病気すら知らなかったのではないかと推測します。いや、もし知っていても、お金のない彼らにはどうすることも出来なかったのではないかと思います。
町の病院へ運びましたが、悲しくも間に合いませんでした。
日本なら、いや、もっと町の病院でもっと早く診察を受けておれば、この病気は間違いなく治されていたはずです。彼らがかわいそうで、残念でたまらなく思います。
大型の台風が近づく中、彼女は3人の子供達に抱きかかえられながら、バナナの葉で作られた自宅に戻ったそうです。
アグタの村の墓地は、私が数日間を過ごした村の直ぐ近くにありました。
道路の上の斜面が彼らの墓地だとスティーブが説明してくれましたが、特に墓らしい墓標もなく、かなりの草が茂っていましたが、彼女もこの自然の墓地に埋葬されるのでしょう。
彼らには正式な住民登録も無いそうですから、亡くなればそのまま埋葬され、寂しく一生を終えることになるのでしょう。
同じ人間でありながら、衣食住が保証され明日の糧に困らない日本人と、その日本に輸出された木材の大量伐採によって生活が窮地に立たされている末端の少数民族も同じ心を持つ人間なのに。
子供達に抱きかかえられて自宅へ帰りました。
悲しそうに母親の遺体を抱いて、自宅に戻る彼らの後ろ姿を見て下さい。
彼らにはこの悲しさ、貧しさを訴えるすべすら知らないのです。貧しさ故に知識もなく総てをそのまま受け入れています。
この文の最初に紹介した写真の「ジャングルで狩りをする幼少のスティーブとその親友サワ」ですが、私がこの村から帰ったあと、彼は病気で亡くなったそうです。なんて彼らの命ってこんなにはかないのでしょうか。私は心底そう思いました。
少なくても私達はこのような人達が居るという事実を知り、紙はもとより食べものや物を粗末にしないように心がけないといけないと思います。
私は先日、テレビでこのような事実も知りました。正確な数値を忘れましたが、日本は世界の穀物生産高の何割かを輸入、消費しているそうですが、その輸入された穀物の全体の3分の2を家畜である豚や牛に喰わせているそうです。
世界中には毎日飢え苦しみ餓死している人達が沢山いるのに、日本人は霜降りの美味しい肉を食べたいために、沢山の穀物を家畜に与えているのです。
このような世の中の不条理に抗議したとしても、多分関係者や前記の木材の大量輸入業者にしても、それ相応の代金を払い、それによってその国の経済も潤い、お互いに助かっているではないかと言うことでしょう。しかし、現実はモラルや倫理より企業の損得勘定の上に日本の経済はあり、政治もあるように思えてなりません。本当は目先の損得より、もっともっとズーッと先のことや周囲の環境を考える企業であり、政治であってほしいと思います。日本に居て我を振り返るより、他国の文化の中から日本を返り見ると、日本の恥ずかしさを感じる気がします。
貧しい時代には心があり、若者は夢を持ち目を輝かせていたように思います。
ある時村の人達がスティーブの通訳を介して私に言いました。「村の皆を日本に連れて行って下さい」と。私は「えー良いですよ、是非皆さんで日本へ来て下さい」と。でも実際は出来ません。それはパスポート取得や金銭的な問題ではありません。彼らの素朴で純粋な心を物欲社会は汚すだろうし、また彼らも分刻みで日々を過ごす日本の文化に耐えられないでしょう。
今彼らに必要な物は、幾らかの知識と安定した仕事だとスティーブは言います。穀物の栽培も一つの方法ですが、先祖代々狩猟民族である彼らには農耕民族のDNAはありません。トウモロコシの栽培も失敗に終わっています。彼らには彼らの文化の中で、何か出来ることがあるはずです。しかしそれには周囲の人達の幾らかの協力が不可欠だと思います。与えるのでなく、彼らとともに作り上げることが大切だと思います。
河が氾濫し田畑を流している 河が道路や田畑を沈めている 特にひどかった東部 手首を骨折した女性を病院へ
本当に大災害が発生したのは私が帰国した数日後でした。12月の初め、まさにこのルソン島東部を大型台風が直撃したのです。
日本でもニュースが流れましたが、洪水による死者、行方不明者は千名を超えるという大災害でした。直後、アロヨ大統領は森林の不法伐採を禁止する声明を出しましたが、山やジャングルは10年20年の短期間で元の形態に戻れるものではありません。
もし、このアグタの少数民族の人達を含む地球上の人間が、日本人と同じような裕福な生活をしたと仮定するなら、地球上の資源が今の2倍半必要だと言われています。言い換えれば、日本人はこのような貧しい人達の資源まで食い尽くしていると言っても過言ではないでしょう。
左の写真はアグタ村のへニーさんと私。彼はとても明るく人なつっこい人だった。
そのへニーさんが8年後に病気で亡くなったと連絡が入った。2012年9月30日の事。
私はこの笑顔のへニーさんや村の人達にもう一度会いたいと思っていたが、いまだに実現して
いない。とても残念な気持ちになった。へニーさんの冥福を遠くから祈りたい。